ご覧いただきありがとうございます。UCHIKURA CO 代表の内倉憲一です。
1959年、兵庫県芦屋市に生まれ、高校卒業まで同地で育ちました。幼少期から新しいことに挑戦する好奇心旺盛な性格で、18歳の時に海外での新しい経験を求め、米国カリフォルニア州へ渡りました。そこで英語学校に通った後、Azusa Pacific University に入学。ビジネスとコンピュータの専門知識を学び、1983年に卒業しました。
卒業後は日本に帰国し、日本コンピュータサイエンス株式会社(JCS)に入社。海外部に配属され、大型コンピュータのエンジニアとして技術面を支えるだけでなく、営業としても活動し、海外とのビジネス展開に貢献しました。その後、1985年には JCS の子会社である Sungrade, Inc. をシアトルに設立し、わずか25歳でゼネラルマネージャーに就任しました。この時期には、米国ソフトウェアのライセンス契約や、ローカライズ、輸出販売といった国際的なビジネスを推進し、貴重な経験を積むことができました。
しかし、2年後に Sungrade, Inc. が米国市場から撤退することが決まりました。その際に得た資産と経験を活かし、1987年に Pacific Software Publishing, Inc.(PSPINC)をワシントン州マーサーアイランドの自宅アパートで設立しました。何もわからない状況からのスタートでしたが、多くの方々の支援やアドバイスを受けながら、企業経営を続けることができました。
PSPINCは、創業から37年にわたり、日米間のビジネスをつなぐ橋渡しとして、ソフトウェア開発やウェブホスティングサービスなどを提供し続けています。この長い経営の道のりでは、成功だけでなく、数々の困難や失敗にも直面しました。しかし、それらの経験は、実際に自分で経営を行わなければ得られない、非常に貴重なものだと感じています。
今、私が提供するコンサルティングサービスは、これまでの成功と失敗のすべてを通じて得た実践的な知識と洞察に基づいています。お客様のビジネスに寄り添い、共に課題を解決し、成長を支えることが私の使命です。これまで多くの方々に支えられ、ここまで歩んでこれた経験を、今度は他の企業や個人に還元していきたいと考えています。
Pacific Software Publishing, Inc. 設立 1987年
私は、米国のPCソフトウェアを日本向けにライセンスし、日本で販売するという事業を提案し、米国子会社の責任者としてシアトルに派遣されました。10人以上のスタッフを抱え、2年間にわたり運営していましたが、残念ながらこの事業は収束することとなり、全社員を解雇し、会社の資産を処分することになりました。帰国命令が出ましたが、私は帰国ではなく退職を決意し、アパートの一室でPSPINCを起業しました。
PSPINCの最初の業務は、前の会社の残された資産の処分と、会社の登録抹消手続きでした。この写真は、PSPINCをワシントン州に登記した翌日に、私のアパートで撮影されたものです。
創業当初は、翻訳の仕事をいただいて売上を上げていましたが、それでもまだビジネスと呼べる段階ではありませんでした。その後、Sungrade, Inc. 時代にライセンスしたRDBシステム「Revelation」を、日本向けに販売するため、ドア・トゥ・ドア営業を始めました。
1987年当時、日本ではIBM PC互換機「AXアーキテクチャ」の規格が登場し、IBM PC互換機用のソフトウェア販売が可能となる時代が到来しました。しかし、日本市場の主流は依然としてNEC PC-9801でした。そこで私は、NEC向けに移植・ローカライズされたソフトウェアの販売と同時に、米国のIBM PCやApple向けの英語ソフトウェアの輸出事業を、日本のパートナーと共に開始しました。
当時、日本では海外ソフトウェア、特にゲームやマルチメディアの需要が急速に広がっており、ソフトバンクやソフトウェアジャパンといった国内流通業者や、The Computer館といった大手販売店に対してソフトウェアの卸販売を行うビジネスが確立されました。これにより売上が向上し、社員を雇うことができるようになりました。
さらに、輸出事業に加えて、ソフトウェアの日本語化・ローカライズサービスも提供し、米国ソフトウェアを日本市場に向けて販売する事業も順調に成長していきました。日本語化の作業を行うために自社でソフトウェアエンジニアを抱えてソフトウェア会社としての形態が出来上がることになります。
Pacific Software Publishing, Inc. インターネットホスティング事業の立ち上げ (1997年)
WindowsやIBM DOS/V環境が普及する中、ソフトウェアの日本語化需要が減少し、英語ソフトウェアの輸出も低迷していた時期がありました。この状況下で、新しい事業の方向性を模索していた私は、米国でインターネットが急速に普及し始めたことに注目し、「インターネットを活用して何か新しい価値を提供できないか」と考え始めました。
当時、企業が自社のホームページを持ち、独自ドメインでメールを運用しようとすると、専用回線を引き込み、サーバーを購入して自社内で管理する必要がありました。これには非常に高いコストがかかり、大企業だけがインターネットの利便性を享受できる状況でした。
そこで、私たちは現在で言うところのSaaS型ホスティングサービスとして、Moshix2 (Moshi Moshi)を立ち上げました。このサービスは、企業が自社のウェブサイトやメール機能を、従来の高額な設備投資を避けながら持つことができる、革新的なソリューションでした。サービス開始直後から注目を集め、日米の多くの企業から注文をいただくことになりました。
こちらにあるグラフィックは、1997年当時に販売を開始したホスティングサービスの価格表です。ご覧いただければ、現在の価格と比較してどれほど高価だったかがわかるかと思います。それでも、この価格は自社でサーバーを運営するよりは遥かに安価で、シアトルではTully's Coffee、ProGolf Discount、Park Place Ltd.などのお客様が、ホスティングサービスに加えてホームページの作成も依頼されるようになりました。
さらに、日本国内では再春館製薬や神戸トヨペットなどからも、ホスティングとホームページ作成のご依頼をいただきました。当時のホームページ開発は、静的な情報を表示する「紙芝居」のようなサイトが主流でしたが、私たちが開発したのは、インタラクティブな機能を持つ、当時としては画期的なウェブサイトでした。これが可能だったのは、私たちがソフトウェア開発会社として優秀なエンジニアを抱えていたからです。