最初で最後の国産旅客機
2026-05-29
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最初で最後の国産旅客機
日本の航空機の歴史を語るとき、必ず名前が出てくる飛行機があります。それが YS-11 です。
日本の航空機の歴史を語るとき、必ず名前が出てくる飛行機があります。それが YS-11 です。
YS-11は1962年に初飛行し、1965年から運航を開始した戦後初の国産旅客機でした。戦後、日本は航空機開発を禁止されていましたが、その制限解除後に官民一体となって開発したのがYS-11です。三菱重工、川崎重工、富士重工、新明和工業など、日本を代表する航空技術者たちが集まりました。
当時の日本にとってYS-11は単なる飛行機ではありませんでした。
「日本が再び航空機を作れることを世界に示す象徴」
だったのです。
YS-11は全日空や東亜国内航空だけでなく、アメリカを含む海外の航空会社にも導入されました。またFAA(米国連邦航空局)の認証も取得し、日本の航空技術が国際的に認められた大きな成果でもありました。
私は若い頃、羽田-函館便でYS-11に乗ったことがあります。今でも覚えていますが、とにかく機内がうるさく、よく揺れました。現在のジェット旅客機のような静かで滑らかな乗り心地とは大きく違い、まさに「飛行機に乗っている」という感覚が強かったように思います。それでも当時はそれが当たり前で、多くの人を全国各地へ運んでいました。
しかし商業的には厳しい現実もありました。開発費の回収は難しく、生産数は182機で終了します。結果としてYS-11は成功と挑戦の両方を象徴する飛行機になりました。
その後、日本は長い間、本格的な国産旅客機を生み出すことができませんでした。三菱スペースジェット(MRJ)も開発中止となり、現在に至るまでYS-11は「日本で設計・製造され、世界で運航された唯一の国産旅客機」という存在であり続けています。
技術的な成功だけでは航空機産業は成り立ちません。開発、認証、販売、サポート、そして世界市場との競争。その難しさを教えてくれたのがYS-11でした。
私にとってYS-11は、日本の航空技術の誇りであると同時に、羽田から函館までの騒々しく揺れる空の旅の思い出でもあります。だからこそ、この飛行機は今でも多くの人の記憶に残っているのでしょう。
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